幸福とは何か

日常で感じる「幸せ」とは

人によって異なる日々の生活の中で感じる幸せについて

幸せ(幸福)について、哲学、宗教、経済学、心理学と様々な観点から、先人がどのように考えてきたかについては、別ページで概要を紹介しました。先人がそれぞれの分野から幸せ(幸福)について考えてきたことは、現代の私たちについても幸せになるためのヒントを与えてくれます。

しかし、人によっては、難しく感じるかもしれません。「日常的に感じる幸せ」といって思い出すのは、THE 虎舞竜 が第一章を1993年に発売して、以来シリーズ合計300万枚以上の大ヒットになった「ロード」です。この曲は、作詞作曲した高橋ジョージが、仙台から東京へ上京してバンド活動を開始した時期である1987年にファンの一人の少女(当時19歳)から、高橋の元に届けられたファンレターが、楽曲「ロード」誕生のきっかけであることは有名です。暗い歌だから売れないとレコード会社が判断したことから、インディーズで発売された曲です。(Wikipedia参考)

手紙の内容は、付き合っている相手の彼はバツ1で一児の父ですが、ファンレターをくれた女性は、その彼の子供を妊娠していました。しかし、その彼は、もう子供はいらないと言っていて、女性は、彼に「子供を生みたいと打ち明けたいが、どう打ち明けたら良いのか」という相談の内容でした。その後、春に出産することになったそうですが、春を迎える前に彼女と音信不通になっていて、“どうしたものか”と高橋が思い悩んでいたところ、交通事故で胎児とともに死亡してしまったことを知り、高橋は、衝撃を受けてこの曲をつくったそうです。

 

ロード 第一章
作詞 高橋ジョージ 作曲 高橋ジョージ  唄 THE 虎舞竜

ちょうど一年前に この道を通った夜
昨日の事のように 今はっきりと想い出す
大雪が降ったせいで 車は長い列さ
どこまでも続く赤いテールランプが綺麗で

サイドシートの君は まるで子供のように
微笑を浮かべたまま 眠れる森の少女
ゆすって起こした俺を 恨めしそうににらんで
俺の手を握り返し 「愛がほしい…」と言った

何でもないような事が 幸せだったと思う
何でもない夜の事 二度とは戻れない夜

子供が出来たと君は 戸惑いながら話し
うつむき口を閉じて 深いため息を吐く
春が来るのを待って 二人で暮らそうかと
微笑む俺に泣きつき いつまでも抱き合ってた

何でもないような事が 幸せだったと思う
何でもない夜の事 二度とは戻れない夜

冬も終わりに近づき 借りたての部屋の中
突然闇に落とした 悪夢のような電話
病室のベッドの上 まるで子供のように
微笑みを浮かべたまま 眠れる森の少女

ちょうど一年前に この道を通った夜
あの時と同じように 雪がちらついている

何でもないような事が 幸せだったと思う
何でもない夜の事 二度とは戻れない夜

何でもないような事が 幸せだったと思う
何でもない夜の事 二度とは戻れない夜

 

ロードの歌詞にあるように、
「何でもないよう事が、幸(しあわせ)だったと思う」
といったように、オリンピックで金メダルを採ったり、大きな事業を起こしたり、世界旅行をしたりといったことではなくても、好きな人との一緒に過ごす何気ない時間が幸せであったことが、失ってみてわかるのだと思います。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの行動科学教授ドーラン・ドーランが、日本語での翻訳本も出ている「幸せな選択、不幸な選択」の中で、「幸せ」について、日常の幸せにも関わる定義をしています。

ポール・ドーランの幸せの定義

「幸せとは、快楽とやりがいが持続することである」

 

ドーランは、ロードの歌詞にあるように、恋人同士でクルマに一緒に乗って移動するといったことや、プロ野球を観に行くといった日常的なことと、仕事のようにやりがいをもたらす活動とは異なると考えました。

尚、快楽というと、刹那的なイメージがありますが、ドーランが言う快楽には、あらゆるポジティブな感情-喜び、興奮、楽しみの感情をひっくるめてです。また、苦痛に関しても、怒り、不安、ストレス、心配が含まれています。

一方、ドーランがあらゆるポジティブな感情を含むとすれば、快楽という響きよりも、日常的な楽しみの方が私自身はしっくりきますので、本記事では、快楽を日常的な楽しみに置き換えて書いていきたいと思います。

ドーランは、友人が一流のマスコミ会社で働いていて「会社は大好き」だといいながら、上司や同僚へ不満、通勤の辛さ・・・などについて訴えたと言います。
しかし、ドーランは、会社が大好きだということ、日常に起きていることとの不満とは、全く矛盾がないと言います。

なぜなら、仕事全般に関する評価と、仕事で日々経験していることとは別だからです。経験と評価の違いをドーランは、映像と写真の違いに例えます。日々の生活は、撮り続けている映像については不満で惨めだと感じるが、対照的に仕事の全体像を写した「スナップ写真」には満足しているというのです。

このことは、実際に自分を幸せにしてくれるものではなく、幸せにしてくれるはずだと思っていることに注意を向けてしまう傾向があることを示しています。つまり、日々起きている幸せ実感ではなく、一流会社に勤めているといった評価に満足しているからです。

そうした意味で、多くの満足度調査は、スナップ写真しか撮ることができず、限界もあります。本来なら、両方が継続的に調査できればいいのでしょうが、調査に関する負担その他の理由と、思い込みから継続的に測定することはできていないのが現実です。

 

「日常的な楽しみ」と「やりがい」のバランスをとる

一方、簡単に、日常的な楽しみと苦痛に関して、簡単に日常的な楽しみが良くて苦痛がダメといったものでもありません。
苦痛をともなってもやりがいがあることもあります。
私自身、「毎年1冊は執筆しよう!」といった自分自身なりの目安を設定して執筆活動をしています。また、毎月の連載を抱えていますので、締切りに追われるといったことは楽しみとは程遠く、まさに、ストレスフルで苦痛そのものです。しかし、自分の考えを表現できることは、やりがいを感じながらやっています。

また、会社経営も行っていますが、こちらについても、売上利益の確保、社員の採用や育成他、思い通りにいかないことばかりでストレスを感じます。一方、自分自身が方向性を示すことできることにやりがいを感じています。

逆に、日常的な楽しみを感じることはできますが、やりがいを感じないこともあります。スマホでゲームをやり続けている人は少なからずいます。私も、以前は、電車で通勤中に、スマホゲームを楽しんでいました。しかし、後で振り返ると、読まなくてはいけない本があったと後悔をすることもあります。

こうした後悔から、最近は、意識して通勤時間は読書に充てていますが、その時は、面白くなかったとしても読み切った後は、達成感とやりがいを感じます。
つまり、日常的な楽しみとやりがいは、ある程度、トレードオフになるかもしれません。

 

出典:幸せな選択 不幸な選択 ポール・ドーラン著 早川書房

 

一方、日常的なやりがいが、ほぼ一緒になるといった場合もあるでしょう。
例えば、子供の頃から、サッカーを夢中でやっていて、Jリーグに入り活躍し、さらに、日本代表を目指すような場合です。

まさに、「好きこそものの上手なり」のことわざにあるように、好きだから快楽を感じ、夢中になるから、サッカーがうまくなりといったこともあります。しかし、ドーランが言うように、サッカーの日本代表を目指す選手にも、日々の練習では苦痛を感じることは間違いありません。

 

人によって異なる快楽とやりがいの比率

十人十色と言われるように、厳密にいえば、幸せは人によって異なります。

 

やりがいと快楽のウエイト

「やりがい」を中心にしている人
「快楽」を中心にしている人

 

「やりがい」を中心にしている人は、当然ですが、「やりがい」を優先した時間の使い方をします。私自身も、執筆や経営が主な仕事です。特に、経営は、自分だけでなく多くの雇用責任がありますから、極端な話 365日間休むといったことがありません。個人的には、筑波大学准教授で作家の落合陽一氏が言っているように、「お百姓さんのような働き方」ワーク・イズ・ライフが性に合っていますのでストレスを感じません。そして、十分に幸せを感じながら毎日を過ごしています。

一方、私のような人ばかりではありません。「趣味命」という人もいます。
私の友人には、ゴルフ命、カラオケ命といった人もいます。私からすれば、「もっと、仕事のことを考えろよ!」といった気持ちになりますが、これは、おせっかいといったもので、人それぞれの人生に他人が口出すことではありません。

しかし、一方で考えるのは、ドーランがいうように、「やりがい」と「日常的楽しみ」のバランスをとって、幸せを実感できることを、その人なりのバランスを意識して、日々の活動を営むことが重要かもしれません。

「やりがい」を中心にしている人は、時には思い切って休日をとり、旅行に出かける、スポーツで汗を流す、気の合う人と飲みに行くといったことは、日常的な幸せの時間を少しだけ増やすことになります。また、リフレッシュになり、「やりがい」を感じていることに、プラスになるかもしれません。
逆に、「日常の楽しみ」を中心にしている人は、「やりがい」を感じるようなことを見つけるといったことも重要なのです。

経済学で言えば、限界収穫逓減の法則があり、一杯目のビールよりも二杯目三杯目と段々うまく感じなくなると同じで、「やりがい」ばかり追求するのではく、「日常的な楽しみ」も取り言えることで幸福度が増すのです。

 

「幸せ」に優劣は本当にあるのか?

マズローの欲求5段階説は、ガンジーやマザーテレサのように、生理的欲求や安全の欲求が満たされなくても、自己実現の欲求、さらに、マズローが晩年に提唱した自己超越にある人がいますが少数であり、多くの人は、生理的な欲求が満たされて次の安全の欲求と
階段を上がるように段階を経ていくといったことを唱えました。

 

 

また、ダニエル・ネトルは、「幸福」の3つのレベルを設定して、「レベル3」が善良なる生活といっています。

 

 

こうしたように、段階やレベルで表すと、あたかも、下層の欲求や、レベル1の幸福が、上層の欲求やレベル2の幸福について、劣っているような印象になりますが、必ずしも優劣はないのではないでしょうか?

幸せとは、日常の楽しみとやりがいの両方が得られる経験に満ちた生活のこと

ドーランの主張を端的に言えば、上記に集約されるでしょう。

まさに、冒頭で例に挙げた THE 虎舞竜の大ヒット曲「ロード」の歌詞のさびで繰り返される「何でもないよう事が、幸(しあわせ)だったと思う」が、幸せの本質なのかもしれません。そして、そのことに共感する人が多かったからこそ、多くの人が長年に渡り聴かれて、カラオケでも唄われるのでしょう。

つまり、日々、やりがいと日常の楽しみがある時間が長いほど、後で振り返って、「幸せな人生だった」と思えるのでしょう。

私なりの結論を整理すると以下の通りです。

ポイント

  1. 幸せは、「日常的な楽しみ」と「やりがい」の両面が重要である。
  2. 人によって「日常的な楽しみ」と「やりがい」のウエイトは異なるが、意識してバランスをとる努力をすることで幸福度は高まる。
  3. 「日常的な楽しみ」は、レベルや階層が低い幸せではない。

 

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藤井正隆

代表取締役社長株式会社イマージョン
大手組織開発コンサルティング会社で、営業責任者及び総研チームを経て、マネージングコーディネーターコンサルタントとして、「事業戦略」、「マーケティング戦略」、「組織変革」のコンサルテーション及びマネジメント研修を担当。 徹底した現場主義で、優良企業年間120社以上を視察訪問研究を継続中。千葉商科大学大学院商学研究科客員教授

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